自宅でちょっとだけ運動したいときに「KaQiLa」

運動はそんなに得意じゃないけど身体動かしたいなーとか、

運動するのは面倒だけどちょっとは身体動かした方がいいよなーとか、

そんな感じの方には合うと思う「KaQiLa」というヨガ的なやつです。

 

以前ジムに通っていたときに参加したプログラムで、

「前屈してみてください! その感覚を覚えておいてくださいね!

 60分のプログラムの最後にもう一度前屈をするので比べてみましょう!」

なんてことをインストラクターが言いました。

 

懐疑的なわたしは「いやいや60分ごときで変わらんでしょう」と思っていたのですが、

ぎりっぎり指先が床に付く程度だったのが、軽々と床に触れるようになったのです。

単純なわたしは「すげえ!!」と思い、毎週そのプログラムに参加していました。

 

転職だなんだと忙しかったこともあり、ジムは退会したのですが、

これは続けたいなあと思ってDVD付きの本を購入し、

思い出したように時々やっています。

驚くことに、10分ぐらいするだけでも肩凝りに効くんですよね。

よかったらお試しください~

(2:00ぐらいからエクササイズ本編が始まります)

 


ろっ骨エクササイズKaQiLa~カキラ~

 

わたしが持っているDVD付きの本は、

10分/15分/30分のプログラムが入っていて、

その日の気分で時間を選べるのでけっこう気に入ってます。

経血が多い人の味方 月経カップ

手術関係で訪問してくださっている方が多いようなので、

同じような悩みを抱えていらっしゃる方もいるかもしれないのでご紹介。

 

子宮筋腫のせいか経血量が多く、毎回服や布団を汚してしまい、

それを洗濯するときの気分の沈みといったら・・・という感じだったので、

なんとかならないものかとネットで検索して見つかったがこれ!

 

信じることにする、という意思 /関数ドミノ 

 大好きなイキウメの作品が外部プロデュースで公演されていたので、観に行ってきた。

これまでそこそこの量の観劇をしているつもりだが、その中でベストの作品だった。

 

**ネタバレ盛大に含みます**

 

【あらすじ】

「ドミノ」と呼ばれる、本心から願ったことがすべて叶ってしまう存在。

本人は無自覚だが、周りはその願いを叶えるために倒れてゆく駒となる。

まるでドミノの最初の一個のように、彼の願望が周囲に影響を及ぼしていくのだ。

 

主人公の薫は、いつも自分の近くにドミノが存在するせいで自分は割を食わされているのだとと嘆いている。

ある交通事故をきっかけに、ドミノである疑いの高い左門と知り合い、ドミノの存在を証明しようと彼の監視を始める・・・。

 

いきなりラストシーンのネタバレだが、

左門の周りでは「奇跡」としか言えないような出来事が起こり、ドミノの存在が証明されたかのように見えたが、実際はドミノだったのは薫の方だった。

「左門がドミノであることを証明したい」という薫の願いが、左門の周りでの奇跡を起こしていたのだ。

薫は自分がドミノの力で傷付けてしまった秋山を、ドミノで救おうとするがなにも起こらないまま幕が閉じる。

 

ドミノが起こるのは「本心から願ったことだけ」であり、

この人を救う「べき」だという良心からは発生しないし、空を飛びたいというような自分でも叶うと信じられないようなことは叶わない。

 

薫は、自分のドミノの力を信じられなかったのだ。

ドミノの存在を心から信じていることは、左門の周囲での奇跡を起こしたことで判明している。

彼は「自分が」ドミノであることを信じられなかった。あるいは信じたくなかったのだ。

 

他人がドミノであることを信じること。

それは、その能力もないのに不当に何かを得ている他者のせいで、自分が代わりに犠牲を負わされているのだと信じることでもある。

自分が得られなかったのは自分の責任ではなく、ドミノのあいつが居たせいなのだと。

 

薫は自分がドミノであることを受け入れられなかった。

自分が不遇なのは、ドミノであるにもかかわらず不遇だったのは、

己の心が己を不遇にしたことを意味するからだ。

 

薫がドミノであると判明する前に、秋山が薫に言ったことそのままだ。

いつか自分がドミノが回ってくるかもしれない、だからポジティブな願いを持つの。

薫はどうしてそんなにネガティブでいるの? と。

 

薫がドミノのせいで自分は犠牲になっていると吐露するのに対し、

なんでも他人のせいにするだめなやつだなと感じる一方で、それは自分にも覚えのある感情でもあって。だからラストシーンは教訓のようにも思えた。

 

心理学で、「悪いことが起きる」と信じていると行動がそれに引っ張られ、結果的に自分でそれを実現させてしまうという話がある。それを思い出したのだ。

 

劇中に何度も出てきた「信じることにした」という台詞。

信じることは、自分の意思でもあるのだ。

自分で「できない」と信じていれば、できるようにはなれない。

「できる」と信じることはできなくても、「できると信じることにする」ことはできそうな気もするのだ。

 

 

死にたいわたしを救うのもまたわたし / 爽やかな逃走 (CIVILIAN)

 9/1に子どもの自殺が増えるということで、

夏休みの最終日、NHKで特集番組をやっていたらしい。

その中で、わたしを救った音楽というテーマで何曲か取り上げられていたようだ。

 

大好きなバンド、Lyu:Lyu(現:CIVILIAN)の曲も上がっていたようで嬉しい。

その曲「ディストーテッド・アガペー」も大好きな曲のひとつなのだけど、

わたしの中でLyu:Lyu/CIVILIANの救われる曲No.1は「爽やかな逃走」。

 

行きたくないところへ、それでも行かなくちゃと苦しむ人のための曲。

歌詞がどこもかしこも共感できすぎて、引用しはじめたら止まらないのでやめる。

行かなくちゃと思ってるのに、身体が拒否してどうしようもない感じとか、

ここまでがんばる意味ってなんなんだろうって思ったりとか、

吐きそうなくらい理解できてしまう。

 

ライブでは終盤のこの歌詞にいっつも泣かされる。

いつの間に言えなくなったの 「嫌だ」とか「やりたくない」とか

誰に習ったの 我慢しなさいって

君の中で首を吊ろうとしている君を

君だけが止められるんだ

 

その渦中にいるときは「行かない」という選択肢は重大なもののようなんだけど、

死にそうな思いをしてまで耐えるようなことはないんだと最近は思う。

経験上、他人からすれば「逃げた」と言われるようなことを何度かやって、

それでもまあ生きていけるなって分かったから言えることだけど。

 

逃げるというのは簡単なことではなくて、

いろんな心理的な葛藤を乗り越えてようやくできること。

惰性と妥協と我慢で生きてるよりよっぽど行動的でいいと思うのです。

 

Amazonでたった¥270ぽっちでポチれるので、

試聴して声質が好みでないとかでなければ是非!!

子宮筋腫・卵巣嚢腫手術記 (術後5カ月)

サブテーマとして書いていた手術記がいちばん需要があるようなので、

手術のその後の話を書こうと思う。

 

手術後3週間で仕事復帰の予定だったが、

3週間ではふつうに歩くこともまだままならず、

少し動いただけで体力の消耗が半端ではない状態だったため、

「この状態で復帰しても使い物にならん!」と

上司に連絡して1週間延長してもらった。

 

たった1週間だが、その1週間がとても大きく、

比べ物にならないくらいさくさく動けるようになっていて、

(自転車も乗れるようになってた!)

仕事も問題なくこれまでどおりのフルタイムで復帰できた。

 

 体調はというと、すべての筋腫を取りきったわけではないので、

生理痛はこれまでとほぼ変わらずあるけれど、腰痛はかなり改善された。

癖のように頻繁に腰を叩いていたのが、まったくなくなった。

元々症状が重かったわけでもないから、改善もそんなに実感はない。

 

残っている筋腫の育ち具合を見てもらうために、

数カ月に一回病院に通う程度で、特に仕事にも支障はなく、

手術したなんて嘘のように、これまでどおりの日常。

 

傷跡もほんとうに小さくて薄く、こんなので手術できるんだ!と

現代の医療技術には感服。

ただやっぱり気持ち的に傷跡の近くをさわるのはいまだにどきどきして、

お風呂でもそこだけは擦るのを気にしてしまう。

 

今ある筋腫がまた大きくなってしまったらまた手術になるけど、

これぐらいの苦痛・苦労なら全然耐えれることが分かり、ちょっと気楽。

案ずるより産むが易しというけど、経験者にだけ言えることだそれは。

 

私も手術前はすごく不安で、いろんな人の体験記をネットで読み漁ったから、

もし私の書いているものが誰かの不安を少しでも軽減できたらいいなと思う。

 

 

寄り添う、その一歩先へ / CIVILIAN

昨日のCIVILIANの改名1周年ライブ。

 

Lyu:LyuからCIVILIANになったことを体感させられたライブだった。

セトリの組立ても、Lyu:Lyu時代のものは中盤のアコースティックとアンコールのみ。

たった1年で、CIVILIANとしての楽曲だけでライブができるバンドになっていた。

 

そして「生者ノ行進」は大きなターニングポイントだったのかもしれない。

客席に呼び掛けて一緒に歌う、というスタイルはLyu:Lyuには似合わなかった。

あの演者と客席の一体感はCIVILIANだからこそ生み出せたもの。

 

鬱ロックと言われることもある彼らがメジャーデビューし、

これまでとは違う新たな一面を開花させていく姿に、

ファンはそれだけで力をもらえる。

 

以前、彼らのことを「生きづらさに寄り添う音楽」として記事を書いた。

 

atamanonaka.hateblo.jp

今、彼らは「寄り添う」の先を行こうとしている。

 

「頼りない足でも僕等は歩けるさ ほら一緒に歌おうぜ」(生者ノ行進)

 

一緒に、進もうと言ってくれる。

自分も同じように傷ついているよと寄り添うだけではなく、

それでも一緒に行こうぜと背中を押してくれる。

 

これまでの歌詞に多かった 救う/救われる という二元的な関係性。

でも本当は、あなたが私を救うのと同じくらい、あなたも私に救われているのだ。

だからほら、一緒に行こうぜ、っていうことかなーと思ったりする。

 

CIVILIANになってからの楽曲は前向きすぎる、と言っている古参ファンが多くて、

その気持ちは分からないでもなくて、でも言いたい。

彼らは何もポジティブ一辺倒になったわけじゃないんだよ。

Lyu:Lyuのときの、あの痛みを分かり合える感じをそのままに、

それでも手を取って一緒に行こうぜ、って言ってくれてるだけなんだよ。

痛みを分かち合った、その向こう側に。

 

「生者ノ行進」と、8月リリースの「顔」。

「顔」のMVはとにかく篠原ともえが良いっす!

 

 

 

そして、まだまだ売れてるとは言い難いバンドなので、

気になった方は、ぜひぜひCD購入で応援してください!

 

食べること、生きること / 天の敵

**ネタバレ盛大にしてます**

 

イキウメの「天の敵」を観劇。

イキウメの舞台を観た後は、いつも良い意味でもやっとしたものが残って、

いろいろと考えさせられるのだが、今回のは飛びぬけてその度合いが高かった。

 

「ライターで“食っていく”って言うでしょう。食べることは生きることなんですよ」

 

ひとは生まれ、老い、死んでゆく。

その摂理に反し、122歳でなお若々しい容姿を保つ卯太郎。

完全食としての血液。

人の血液という生の象徴だけを摂取することで、生きてゆくことができる存在。

 

妻を亡くし、友人を亡くし、理解者を亡くし、

太陽の下を歩くことができず、夜の中にのみ生きるしかなく、

それでも飲血を続けて、死を選ばなかったのは何故だったのだろう。

 

自分の存在がいつかは医学の進歩に役立つと信じていたから?

それとも、死が怖かったのだろうか?

 

インタビュアーである寺泊の患う病は、筋力が衰え、いずれ死が訪れるものであり、

それは老いから死を早回しで経験するのと同じことだ。

「今あなたが構えているカメラを数か月後には持ち上げられなくなるでしょう、

 子供を抱き上げることもできなくなるでしょう」

死を受け入れているという寺泊に、卯太郎は「老い」「死」の現実を突きつける。

不能となること。今できていることが、できなくなること。

迫りくる死を受け入れているのか、本当に覚悟があるのかを、卯太郎は繰り返し問う。

 

ラスト、ひとり部屋に取り残された寺泊は、

血液の保存されているであろう冷蔵庫の扉を開け、

「飲血をして生き延びることができる、しかし…」という逡巡の間をおいて閉じる。

険しい表情で座る彼を見つけた妻が、大丈夫と言って肩を抱くが、

彼の表情は変わらず固いまま。

彼は何を考えていたんだろう。

しかたないと死を受け入れている振りをして目をそらしていたことに気付き、

死を直視しはじめていたのだろうか。

 

一方で卯太郎は、終わりにすることを選ぶ。

「ずっと社会を見ていたから分かる。金持ちが貧乏人の血を飲むようになる」。

老いず死なないという欲望のままに飲血に走った糸魚川夫妻は、

人類がそうなるであろうという縮図であり、卯太郎はそれを望まなかったのだろう。

自分も含め、飲血者というもの自体を葬ろうとしている。

食物連鎖の輪から、人間の範疇から外れたものとして自分を認識していた彼は、

飲血者を、自分を、「天の敵」だと思ったのだろう。

ずっと孤独だった彼の人生に、最後のほんの数年だけでも、

支えとなる存在がいたことだけが救いだなと思う。