かわいそう、の罪悪感
「お母さん、娘をやめていいですか?」には、毎週のように胸をえぐられている。
娘をなじることしかしない親(主人公の美月からは祖母)が亡くなり、
最期に遺した言葉もまた、自分をなじるものだったことから、
精神的に不安定になる顕子(美月の母親)。
泣き崩れる身体を支え、「大丈夫、私がいるじゃん!」と美月は言う。
その後、体調を崩した顕子は、自分と彼氏のどっちが大事なのかと美月に問いかける。
一方、美月の教え子である礼美は、離婚して離れている父親に会おうとして、
「あんたを育てたのは私なのに!私とあいつ、どっちが大事なの!」と
母親に暴力をふるわれていた。
どちらのエピソードも、母親の「かわいそうな私」が背景にある。
意図的であるか、無意識であるかはともかくとして、
自分から離れる気配を見せた娘に対し、
「かわいそうな私」をないがしろにする罪悪感で縛ろうとしている。
以前紹介した小説「あのひとは蜘蛛を潰せない」の主人公の母親も
この系列にある。
私も、それで縛られている。
女手一つで家族を養うために、吐くほど嫌いな仕事をしていた「かわいそうな」母。
不仲な祖母とふたりきりで実家に残してきてしまった「かわいそうな」母。
私が祖母に理不尽に罵られても助けてくれなかった母。
会社の愚痴を口汚くぶちまけて、自分だけすっきりしていた母。
話すのもしんどくて、それでも連絡が来ると無視しないできちんと返した。
私だけが味方だと思っていて「かわいそう」だから。
以前読んだ信田さよ子さんの本に「罪悪感は関係を断つ必要経費」とあり、
なるほど~と思ったけれど、現実はそうも割り切れない。
でも最近は、「また連絡するから今度ね」と言って先延ばしし続けるという技を覚え、
100%とは行かなくても、何割かは経費認定できてきた気もする。
罪悪感のタチの悪いところは、文字通り「罪の感覚」があること。
悪いことをしているわけではないのだと思うところから、
すべてがスタートできるのかもしれない。
「家族」は免罪符にならない /カルテット3話
昨夜のドラマ「カルテット」が最高に良かった。
昔、幼い娘を利用して詐欺をはたらいた父親が亡くなり、
父親のいる病院の近くまでは行ったものの通り過ぎるすずめちゃんを見つけ、
真紀さんが追いかけていく。
平凡な脚本家だったらきっと、父親のところに行かなきゃと説得して、
「あーあ」とがっかりするシーンになっていたと思う。
しかし坂元裕二はやってくれた。
(大好きな脚本家さんなので、「やっぱり!」と「さすが!」の念を込めて)
行きたくない素振りを見せつつも「家族だから、行かなきゃだめかなあ」「父親が死んだのに行かないってわけには…」と呟くすずめに、
「行かなくていいよ、帰ろう、いいのいいの」と手を取って真剣な顔で力強く言う真紀さんが、女神に見えた。
2/7(火)までは、下記サイトで無料で見られるようなので、よろしければぜひ。
「手術ですね」と言われてまず考えたこと
いちばん最初に考えたのは「私ひとりでなんとかできるだろうか」ということだった。
ネットで体験談を読み漁っては、入院はいけるけど手術は立ち合いが要る…?など、
とにかく自分ひとりで動くことを前提にいろいろと考えて考えて、
ただでさえ思ってもいない病気が見つかって精神的に不安定なのに、
なんでこんなにひとりでがんばらなれければいけないのかと心が折れそうになる。
肉親に打ち明ければ、入院中のあれこれを手伝ってくれるだろうけれど、
病気になったのはお前に原因があると言われるのは目に見えているし、
これ幸いと、干渉するきっかけにされかねない。
それが嫌だから、こんなにも自分だけで完結させることに執心しているのであって、
そもそもそんなことを考えざるをえない状況が異常なんだよ!と怒りを覚える。
私はもう、今後一切肉親にかかわりたくない。
昔のように死んでほしいとか思わないから、ただ私に関わらないでほしい。
そう願っていることを、強烈に思い知った。
わたしが決めるということ / あのひとは蜘蛛を潰せない(彩瀬まる)
親にかけられた呪縛と戦っている人は、この主人公は自分だ、と思うだろう。
温かいごはんを毎日用意し、娘が帰るまで食べずに待っていたり、
高価な服や化粧品を買い与えたりと過保護な一方で、
「頭が悪い」「脚が太い」とけなす言葉を放つ。
そんな母親と二人で暮らす28歳の主人公の梨枝は、
息苦しさを感じつつも、母親から離れることができずにいる。
幼かった息子を亡くし、夫が愛想を尽かして出ていき、
女手ひとつで育てた息子も結婚を機に家を去る。
そんな母を「かわいそう」に思って。
しかし、大学生の三葉くんと付き合いだしたのをきっかけに、
梨枝は家を出て、少しずつ変わりはじめる。
「きちんと」「ちゃんと」しなきゃと、
実体のない規範に縛られている梨枝を、とても痛々しく感じる。
その一方で、それはまるで自分自身の鏡写しなのだ。
「正しさ」なんていうものは絶対的に存在するわけじゃない。
他の誰でもない、わたしが、自分で決めるのだ。
傷つきながらその結論にたどり着く姿に、力をもらう。
特に、過保護な親に息苦しさを感じている人にぜひ読んでほしい。
毒にも似た歌詞の鮮烈 /スガシカオ
本音と建前なんて言うけれど、
「思ってても言っちゃいけないでしょ、それ」な本音を
グロテスクではなく爽快に表現するのがスガシカオの魅力。
最新アルバム「THE LAST」に収められている
「あなたひとりだけ幸せになることは許されないのよ」は
タイトルからしてもう、その真髄がだだ漏れている。
誰もが経験のある後ろ暗い欲望や感情。
持っていない振りをしたくなる、そんなカタマリたちを、
何でもないことのように彼は歌う。
自分だけではないということの救い、などと言うと陳腐だけれど、
真っ白にキレイで真っ当な人間じゃないのは、何も自分だけじゃないのだと、
どこか許されたような気持ちになる。
そうした影の部分を鮮やかに切り取ってみせる一方で、
NHK「プロフェッショナル」のテーマ曲である「Progress」のような
メッセージソングを書き上げるという才能の振れ幅もまた、
スガシカオにハマる一因だったりするのだ。
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「アルバム視聴会」と題されたライブから約1年が経ったけれど、
耳を傾けるたびに、何度でも視聴会のときの衝撃を思い出す。
デビュー20周年を迎えてなお、エッジの効いた彼の最新作です。
生きづらさに寄り添う音楽 /Lyu:Lyu(CIVILIAN)
しんどくて、大好きな本を開く気力すらないとき、
いつも音楽に助けられてきた。
つらいときに聴くのは、前向きなメッセージ性の強い音楽よりも、
作り手も自分と同じように苦しんでいることが感じられる、
人によっては「ネガティブ」と言われるだろう曲たちがいい。
Lyu:Lyu(11月にCIVILIANとしてメジャーデビュー)は、
間違いなくそういうときに聴くべきバンドだ。
「他者と関わりたいけどうまく関われない、だから関わりたくない、でも…」
みたいな矛盾感を抱えているひとは、共感性が高いんじゃないかと思う。
私の語彙力ではうまく説明しきれないのがもどかしい。
下にYoutubeのリンクを貼っているので、とりあえず1曲聴いてみてほしい。
彼らの曲は、もしかしたらあなたを救う曲になる。
私にとって、そうであったように。
Youtubeにアップされていない曲もいっぱいあるので、
ちょっとでも琴線に触れた人がいらっしゃれば、アルバムも是非。
事実とは何か /遠野物語 奇ッ怪其ノ三
脚本家が前田知大さんということで観劇。
イキウメ・カタルシツ以外で、彼の脚本を観るのは初めてだったが、
期待を裏切らない面白さ。
「標準語」以外で語ること・記すことが弾圧され、
フィクションが「妄想・虚妄」として取り締まられる世界。
冒頭の「過去であるかもしれず、未来かもしれない」の台詞が刺さる。
科学的に証明できないことは嘘だ、虚妄だと警官は言う。
しかしヤナギダの著作は、ササキが語ったことをそのまま書き起こしたものであり、
ササキ(あるいはササキに語った人)にとっては、それは「事実」なのだ。
たとえそれが、科学的に立証できない奇怪な現象だとしても。
事実であるかどうかは、経験した本人が決めることだ。
イノウエが、妻の失踪を神隠しとして片付けられるのを拒否するのも、
同じことの裏表でしかないように思う。
話はまったく変わるが、ササキが他者の話を語るときに、
「思い出している」ような感じだと言っていたが、
カタルシツの「語る室」のときも同じような台詞があったなぁと。
「想像することは思い出すことだ」。
人類が共有する記憶のプールにアクセスするという途方もない話だったけど、
「分からないけれど、分かる」という感覚を引き合いに出されると、
たしかにそういうことってあるよなと思わされてしまう。
これまでアイドル俳優という印象だったのが申し訳ないぐらい、
東北の訛りがほんとうに上手く、おばあちゃんとの絡みもよかった。
「遠野物語」読んだことがなかったけれど、読んでみたくなった。