食べること、生きること / 天の敵

**ネタバレ盛大にしてます**

 

イキウメの「天の敵」を観劇。

イキウメの舞台を観た後は、いつも良い意味でもやっとしたものが残って、

いろいろと考えさせられるのだが、今回のは飛びぬけてその度合いが高かった。

 

「ライターで“食っていく”って言うでしょう。食べることは生きることなんですよ」

 

ひとは生まれ、老い、死んでゆく。

その摂理に反し、122歳でなお若々しい容姿を保つ卯太郎。

完全食としての血液。

人の血液という生の象徴だけを摂取することで、生きてゆくことができる存在。

 

妻を亡くし、友人を亡くし、理解者を亡くし、

太陽の下を歩くことができず、夜の中にのみ生きるしかなく、

それでも飲血を続けて、死を選ばなかったのは何故だったのだろう。

 

自分の存在がいつかは医学の進歩に役立つと信じていたから?

それとも、死が怖かったのだろうか?

 

インタビュアーである寺泊の患う病は、筋力が衰え、いずれ死が訪れるものであり、

それは老いから死を早回しで経験するのと同じことだ。

「今あなたが構えているカメラを数か月後には持ち上げられなくなるでしょう、

 子供を抱き上げることもできなくなるでしょう」

死を受け入れているという寺泊に、卯太郎は「老い」「死」の現実を突きつける。

不能となること。今できていることが、できなくなること。

迫りくる死を受け入れているのか、本当に覚悟があるのかを、卯太郎は繰り返し問う。

 

ラスト、ひとり部屋に取り残された寺泊は、

血液の保存されているであろう冷蔵庫の扉を開け、

「飲血をして生き延びることができる、しかし…」という逡巡の間をおいて閉じる。

険しい表情で座る彼を見つけた妻が、大丈夫と言って肩を抱くが、

彼の表情は変わらず固いまま。

彼は何を考えていたんだろう。

しかたないと死を受け入れている振りをして目をそらしていたことに気付き、

死を直視しはじめていたのだろうか。

 

一方で卯太郎は、終わりにすることを選ぶ。

「ずっと社会を見ていたから分かる。金持ちが貧乏人の血を飲むようになる」。

老いず死なないという欲望のままに飲血に走った糸魚川夫妻は、

人類がそうなるであろうという縮図であり、卯太郎はそれを望まなかったのだろう。

自分も含め、飲血者というもの自体を葬ろうとしている。

食物連鎖の輪から、人間の範疇から外れたものとして自分を認識していた彼は、

飲血者を、自分を、「天の敵」だと思ったのだろう。

ずっと孤独だった彼の人生に、最後のほんの数年だけでも、

支えとなる存在がいたことだけが救いだなと思う。