信じることにする、という意思 /関数ドミノ 

 大好きなイキウメの作品が外部プロデュースで公演されていたので、観に行ってきた。

これまでそこそこの量の観劇をしているつもりだが、その中でベストの作品だった。

 

**ネタバレ盛大に含みます**

 

【あらすじ】

「ドミノ」と呼ばれる、本心から願ったことがすべて叶ってしまう存在。

本人は無自覚だが、周りはその願いを叶えるために倒れてゆく駒となる。

まるでドミノの最初の一個のように、彼の願望が周囲に影響を及ぼしていくのだ。

 

主人公の薫は、いつも自分の近くにドミノが存在するせいで自分は割を食わされているのだとと嘆いている。

ある交通事故をきっかけに、ドミノである疑いの高い左門と知り合い、ドミノの存在を証明しようと彼の監視を始める・・・。

 

いきなりラストシーンのネタバレだが、

左門の周りでは「奇跡」としか言えないような出来事が起こり、ドミノの存在が証明されたかのように見えたが、実際はドミノだったのは薫の方だった。

「左門がドミノであることを証明したい」という薫の願いが、左門の周りでの奇跡を起こしていたのだ。

薫は自分がドミノの力で傷付けてしまった秋山を、ドミノで救おうとするがなにも起こらないまま幕が閉じる。

 

ドミノが起こるのは「本心から願ったことだけ」であり、

この人を救う「べき」だという良心からは発生しないし、空を飛びたいというような自分でも叶うと信じられないようなことは叶わない。

 

薫は、自分のドミノの力を信じられなかったのだ。

ドミノの存在を心から信じていることは、左門の周囲での奇跡を起こしたことで判明している。

彼は「自分が」ドミノであることを信じられなかった。あるいは信じたくなかったのだ。

 

他人がドミノであることを信じること。

それは、その能力もないのに不当に何かを得ている他者のせいで、自分が代わりに犠牲を負わされているのだと信じることでもある。

自分が得られなかったのは自分の責任ではなく、ドミノのあいつが居たせいなのだと。

 

薫は自分がドミノであることを受け入れられなかった。

自分が不遇なのは、ドミノであるにもかかわらず不遇だったのは、

己の心が己を不遇にしたことを意味するからだ。

 

薫がドミノであると判明する前に、秋山が薫に言ったことそのままだ。

いつか自分がドミノが回ってくるかもしれない、だからポジティブな願いを持つの。

薫はどうしてそんなにネガティブでいるの? と。

 

薫がドミノのせいで自分は犠牲になっていると吐露するのに対し、

なんでも他人のせいにするだめなやつだなと感じる一方で、それは自分にも覚えのある感情でもあって。だからラストシーンは教訓のようにも思えた。

 

心理学で、「悪いことが起きる」と信じていると行動がそれに引っ張られ、結果的に自分でそれを実現させてしまうという話がある。それを思い出したのだ。

 

劇中に何度も出てきた「信じることにした」という台詞。

信じることは、自分の意思でもあるのだ。

自分で「できない」と信じていれば、できるようにはなれない。

「できる」と信じることはできなくても、「できると信じることにする」ことはできそうな気もするのだ。