幸福とは正義とは何なのかを問う原点回帰 / PSYCHO-PASS PROVIDENCE

**本シリーズについてのネタバレがあります**

**3期は放映当初途中脱落したのでこれから見ます**

 

正直、あまり期待していなかった。

1期が至高すぎて、それ以降の作品にはハマりきれず、今回もきっとそうなんだろうと高を括っていた。

覆された。製作陣が「集大成」「原点回帰」と謳うに相応しい作品だった。

 

1期からテーマに据えられている「何をもって幸福とするのか」が再び問われる。

シビュラシステムとはいわば、最大多数の最大幸福を目的とし、少数の犠牲を厭わない体制だ。潜在犯とされた者の人権や免罪体質者がuncontrolableであることは、安定した社会秩序の維持との間で天秤にかけられた結果、許容範囲として看過される。

大多数にとっては、それに従ってさえいれば、それぞれの特性に合わせてコーディネートされた「幸福な人生」を歩んでいける神託であり、敷かれたレールだ。

 

槙島と砺波。観客にとっては同じヴィランという立ち位置だが、シビュラに対する二人の思想は全く対極的である。

槙島は、自らの意思を放棄し、シビュラに盲目的に従う人間たちの在り方に対して、暴力的な形で疑問を投げかけた。

対して砺波は、数多の紛争を目の当たりにしてきた経験から、人間が人間を支配することが争いを生むのだと、機械による人間の統治を理想とする。

そして、二人の共通点であり、常守と決定的に異なる点は、白か黒か非常にはっきりした答えを持っていることだ。

 

常守はシビュラシステムの正体を知ってもなお、「今の社会はそれ無しで立ち行かない」と理性的な判断でもって、それを破壊するという選択をしなかった。

しかし彼女はシビュラを良しとしているわけではない。「いつか誰かが電源を落としにやって来る」「(シビュラを必要としない)新しい道を見付ける」と告げる。

彼女自身、まだ答えを見付けられていないのだ。だから、現状維持しつつ別の道を模索するという真っ当な正道を取った。

 

そして今作冒頭では、シビュラに判断を委ねるのであれば、人間が運用する必要性がなくなるとして、法の廃止が官僚たちの議論に上がっている。現状維持がもはや持たないところまで来てしまった。

 

『法が人を守るんじゃない、人が法を守るんです』という台詞は、常守をよく象徴している。劇場版では「歴史に敬意を払いなさい」という台詞もあったが、慣習法としての「法」、歴史の上に積み上げられてきた、先人たちが考えつづけてきたことの結晶としての「法」に重きを置いている。

法を廃止するということは即ち、過去を捨てることであり、議論をやめることであり、思考を停止することであり、未来を放棄することなのだ。

 

だから彼女は殺した。それとも破壊した、と言った方が正確だろうか。

彼女自身があれを「殺人」として認識しているのかそうでないのか分からない。どちらにせよ、忌避していた法に則らない暴力を行使して、それでも「法」を守った。

おそらく彼女は今もまだ「ではどうすればいいのか」に至っていない。彼女が必死になってやっていることは単なる問題の先送りにしかならないのかもしれない。それでもまだ常守は、何か道はあるはずだと、人間を諦めていないのだ。

 

「何をもって幸福とするのか」。

砺波は、世界中が紛争状態に陥る中、唯一安全と秩序を保つシビュラシステム下の体制に「幸福」を見たのだろう。現に、劇場版のラスト、シーアンの民たちは選挙の結果として、シビュラを受け入れることを自身で選んだのだ。

しかしそれは平和ボケしているのかもしれない私たちには全く幸福には見えない。

槙島が魅力的なキャラクターとして映るのはきっとそのせいもある。

『自由意思こそが人間を人間たらしめる』。それを旗印に、ディストピア的な世界の中でその社会システムに反逆を起こすこと。それは本来SFでは「主人公」が置かれがちなはずのポジションだが、本作では槙島が担っている。

では「主人公」である常守は何をしたか?

彼女は足掻いている。より良い未来を探しつづけている。

白か黒かがはっきりしているところをゴールに向かって走り抜けるのは容易いことだ。道が険しかったとしても、行き先が定まっていさえすれば、前には進める。

しかし彼女はずっとグレーの中を泳ぎつづけている。どこにどうやって進むべきなのか見えないまま、自分が正しいと思うことを、自分が為すべきだと思うことを、ただ為す。

本当のところ何が正解か何が間違いかも分からず、正しいと思うことを握りしめるしかなくて、たとえ仲間がいても結局自分自身の責任を負えるのは自分自身でしかなくて。

そんな中で、砺波のように人間の善性を見限らず、槙島のように秩序の崩壊を良しとせず、かといってシビュラに自由意思を引き渡すことを肯定せず、本当に存在するのかも分からない道を模索している。

その不確かな中で葛藤しながら立っているのは強さがないとできないことで、だから常守は「主人公」なのだ。

 

狡噛に手紙を残したところは意趣返しなのか、似た者同士なのか。

相談せずに自分だけで結論を出して決断してしまうのは見習うべきところではないし、狡噛に謝ってほしかったと言ってた割りにやってること同じじゃんと思ったけど、それもまた「お前が正しいと思うことをやれ」という信頼に応えただけのことなんだろうか。

 

常守があの選択をしたラストシーンで全部持っていかれたなという感じで、評価爆上がりした。「主人公」にも手を汚させることを、敗北させることを厭わないのかと。

絶対的なのは真実だけで、正しさは相対的だというスピーチをそのまま体現したような、何が正しいのか足元が揺らぐようなラストシーンで。

彼女が行ったのは暴力に頼ったテロリスト的な行為といえば、それは間違いなくそうだろう。

ただ、「1人殺せば殺人で、100人殺せば英雄」あるいは「勝てば官軍」という言葉を思い出した。テロリストと革命家を隔てるものは一体何なのだろう。結局、その行為の是非を決めるのは結果がどうなったか、でしかないのか…?

 

正しいと信じる結果を得ようとして、自身でも分かっているだろうに正しくないことに手を染めた常守が苦しくて、彼女が慟哭するラストは呆然としてしまって、エンドロールでじわじわ泣いた。

 

エンディング曲、エンドロールで初聴だったのですが、はまりすぎててしんどい。


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